いい映画みた

最近見たのは前評判の高い3作品。

バードマン、セッション、インヒアレント・ヴァイスです。

結論として、僕はどの作品も面白いと思いました。しかしセッションに関しては、一部で話題の論争がネット上でありまして、嫌な気持ちにもなるほどと言う気持ちにもなったりしたのでそれも絡めて書こうかなと思います。

 

セッション

名古屋の伏見ミリオン座はいい雰囲気の映画館ですね。出張の夜に見ました。

まず、批評云々については、本作がアカデミー賞の有力候補作品であり、結果、助演男優賞、脚本賞、録音賞を実際に受賞した作品で、世の中的に絶賛に近い評価を受けているということを念頭に置いたほうがいいと思います。

実在の伝説的ドラマーであるバディ・リッチに憧れる青年が主役で、体罰と罵倒によって指導を行う指揮者(フレッチャー先生)といかに“セッション”するかという物語です。

本当に演奏はバディ・リッチのモノマネみたいな感じ。僕はたしか高校の頃、Youtubeで見たんだったかな。それまでドラムってほとんど裏方的な楽器だと思ってたんですけど、このバディ・リッチって人は途中のソロでドラムだけで何分も演奏するわけです。(ジャズでは特定のパートにスポットを当てて見せ場となるソロ演奏を挟む、というのがよくあります。というかセオリーみたいなもんです。)

そのバディ・リッチの演奏がすごいのなんのって、もう寿命が縮むんじゃないかというほど(演奏後は実際に寿命が縮んでるようにしか見えない)狂ったように叩きまくる。いやいや速ければいいってもんじゃないでしょ笑とは思うんだけど、思いつつももうドラムだけの演奏が物凄い音楽で、圧倒されない訳にはいかないんです。

とりあえず見てみてください。3:00頃からソロで、6:00からの部分はセッションで良く似たシーンが出てきます。途中からスティックがアニメみたいに分身して見えます。

で、論争というのは、ジャズ演奏家菊地成孔さんと、映画評論家の町山智浩さんによる両氏自身のブログ記事を介したものです。

菊地成孔さんは、文筆活動もよくしていて、ジャズに限らず映画やファッションやエッセイなど情報発信の多い人だと思います。僕のスタンスとしては、エッセイから入って音楽も聞いたりして、けっこうファンです。ただし、考え方という点では“住んでる世界の違う人”感もありついて行けないと思うこともしばしば。町山智浩さんは、映画雑誌とかラジオの映画批評コーナーで知ってるなーくらいの認識。Wikipedia見ると、昔はヤンチャだったと言われてそうな経歴がちらほら。傍から見て喧嘩っ早いところはあるようですね、お二方とも。

で、嫌な気持ちになったというのは、菊地成孔さんがこれでもかというほどセッションを罵倒していて、これを喜ぶのは幼児的というような事まで言う。単純に強烈な罵倒と言う時点で怖いですよね。怒ってるんだから怖いのは当たり前なんですが。

それでまあせっかくなので全文読んだんですけど、もともとの菊地さんの批判はそんなに変なことは言ってないですね。その後のエクスキューズやら町山さんとのぶつかりの中での発言が禍々しい。お互いに理性的に書いてますよと言いつつも、けっこうな感情的文章で、ジョークですよ~(ヘラヘラ)と言いつつ目がマジな煽りとかしててみっともなさがあるなと。

とにかく“筆が滑った”部分は両者にありまくりでいちいち引っかかってたらキリがないです。それから人格批判とかジョークのつもりの低俗な煽りとかも盛りだくさんなので、余計な言葉の中から真意を汲み取るのは難しい。菊地さんは近頃のジャンキーなネット住民は長文読解力が低すぎだ馬鹿と言うけど(これが半ばルーチン化した決め台詞だとしても)自業自得なのは否めないですよね。

一方なるほど/たしかにと思った菊地さんの主張は以下。

・ジャズ版巨人の星

・演奏が良くない

・素人が作った危険ドラッグのような映画

パンチドランク・ラブ(レス)な映画(町山さんの解釈含む)

そう、巨人の星的な非人道的なスポ根ドラマで、脚本からしても指揮者が悪人であることは自覚的。だったらそんなに怒る必要あるのかなあと思ってて出てきたのは演奏が良くないということ。

うん、演奏はそんなに良くないです。これはジャズメンの批評を見たから言うんじゃなくて、劇中の音楽を聞いてて音楽にうっとりするような場面が全然ないんですよ。でもなんでだろう、自分ではジャズが好きだと思ってるけど、映画を見ている時にその部分はそんなに気にならなかった。その点、菊地さんが言うように危険ドラッグのようなわかりやすい映画で、萌え萌え~(死語)な暴力表現にクラっときちゃった甘ちゃんがパンチドランクになってるだけ、愛の無い映画だ。と言うのはその通りかもなと思う次第。

でも、それでいいんじゃない?って思っちゃうんだよね。菊地さんが「絶対に許さない」までに批判して「知り合いのジャズメンは呆れるか憤慨するか」だと言ってるように、やっぱり「音楽家だから批判するのではない」んじゃなくて、ジャズメンだからこその嫌悪であり批判を含むんじゃないかと思うんだよな。

町山さんとのやりとりの前の一般読者向けのエクスキューズではその点も認めつつあるのに、あとになるに従ってポジションが頑なになっているような気がするのがなんだかなあ。

そりゃあ文句ならいくらでも付けれるんだけどな。フレッチャー先生も菊地さんもつい口をついて出るドラマーの「ガキ」たる主人公、あんな坊っちゃんが名ドラマーになるわけないだろって話。ただそこがある意味で菊地さんが嫌悪する「あるかもしれない大学の白人によるジャズ」っていう設定の説得力になってると思うし、結局菊地さんも「ああいう間違った鬼バンマスはいる」と認めてるわけで。

町山さんの主張に近いけど、実際にそういうシゴキでジャズドラマーを挫折した人間が撮った(らしいです)憎しみの映画として全然間違ってないと思う。

「あの劇中の音楽がジャズだと思われたら悲しい」という趣旨の菊地さんのコメントは、いやいやあれだけ話広げたのに普通じゃん!そりゃそうだろうよ!ってレベルだし、ジャズじゃなくても一般に認識が薄い題材についてはいつでも誤解される可能性がある、世の中誤謬だらけなのはわかりきったことじゃないかと、フツーな感想しか出てこないですよね。つまるところ、外野のクソリプに煩わされている感が強いので、そのあたりはそろそろ無視していいんじゃないかなーと思います。

僕としては、観ても特にかたちのある感情を掻き立てない映画を駄作としたい。この映画で描かれた、醜悪な人間模様と殴り合いの末に辿り着いた愛の無い渇いた頂点の景色は、ひとつの傑作なのではというところです。

依然、お二人の主張は腑に落ちない点が残るあたり、僕の読解力と知性が及ばない領域なのだと思うのですが、逆に以下の点は論ずるまでもない瑣末なことと思っています。

・こんな教育法(体罰)を美談にするな

 →NHK教育じゃないし…それに美談じゃない

・町山さんの言う映画批評の不文律を守らないのは良くない

 →良くないかもしれないけど、あの議論はなんか寒い。

・邦題の「セッション」は拙い(原題はWhiplash)

 →言うまでもなく酷い

まあ、後味は悪いですね、批評について、余計なもん見たというのは事実。

「あの地獄の果てに見た正体不明の光は、もしかしたら天国へと通ずる扉かもしれない」というところで物語は終わる。その光の先が実際には断崖絶壁だったり、井戸の底から見た広い世界の光だったとしても、その境地に至りうる人間の物語として、記憶に留めたいと思います。

 

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

セッションの論争を引きずって申し訳ないけど、こちらは菊地さんが大絶賛で、セッションで踏みつけられたジャズドラマーが祝福される完璧な映画だと。その点は諸手を上げて賛成です。

いやあ、ドラム、物語には関係ないんだけど、音楽がドラムソロなので作品として超重要な要素。このドラムがもう、映画が始まってすぐにウッヒョーカッケー!!!となること請け合いなんですよ。わかりやすいクレジットとタイトルロゴとの掛け合いだけかと思ったら、物語とドラムの掛け合いが簡単そうで新しい、頭がスパーンと弾かれるようなフレッシュな驚き。とにかくクール。

僕はここ数年、南米文学に触れていて、マジックリアリズムに対して違和感がないどころか崇拝するほど好きな表現方法なのですが、菊地さんの批評には丁寧に解説がされてありましたね。こういう認識は広まって欲しいなと思います。つまり・・・

主人公のリーガンの超能力は妄想か/現実かについて、妄想として説明する人が多い。最後に彼は飛び降りたのか、飛び立ったのか、決めるのは人それぞれという書き方が多い。でもそうじゃない、ということです。

決める必要がないんですよね。マジックリアリズムにおいて。妄想であり現実なんです。そういう矛盾する見方を同時に行うというのは南米文学に広く浸透しているし、もともと人間は古来からそういう考え方を普通にしていたし。神話や伝説はそうした性質が根強いし、現代でも魂とか故人に対する思いに辛うじて残ってる。

現代的な、科学的っぽい哲学っぽい解釈を無理にしようとするならば、「ある人間がそれを超能力だと認識したのならば、物理的に超能力でなくてもそれはその人間にとっては超能力が現実となる」というようなところでしょうか。これだとかなり科学的な認識に偏っている説明なんですが、僕達の21世紀的頭脳で捉えるならこれが限界な気がします。ほんとうは、「実際には起こっていないけれど」という注釈抜きの、物理と妄想の垣根を取り払った(現実にそのような垣根は存在しないとする)思想だと思います。

このようなマジックリアリズムを、ブロードウェイという舞台で過去の栄光(それもアメコミヒーローw)に拘泥する中年男性を主役に、という企画がもう素晴らしすぎる。虚構を演ずる場である舞台に立つのは現実に打ちのめされた男なんですよ。

半ば古典となりつつあるボルヘスとかマルケスマジックリアリズムは、当時は20世紀文学のニューウェーブとされつつも、時代を経て早くも空想物語的雰囲気が出てきてしまってるきらいはある。それにたいして本作の新鮮さ。単にカメラワークの独特さだけが斬新なのではなくて、脚本、役者、音楽、それぞれが現代的でありながらのこの手法というマッチングが完璧な映画なんです。

こういうマジックリアリズムの再解釈、ポップカルチャーとの融合、現代社会との混交、それらの移民による発信というのは既に始まりつつあって、今後非常に期待が持てるテーマだと思います。この前読んだ「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」という小説も、ドミニカ系アメリカ人によって書かれたマジックリアリズムポップカルチャーの融合(そして独裁政権の記憶)で、すごく刺激的だった。共通するのはテンポの良さで、ここが現代的と感じる要素のひとつだし、バードマンにおいてそのテンポを刻むのがドラムによる音楽というわけです。

カジュアルさも深みも映画的エレガントさも兼ね備えていてかつ人懐っこい、い~い映画でした。

 

インヒアレント・ヴァイス

Inherent Vice:内在する欠陥

海上保険用語のひとつ。

生まれながらの性質として変えられない欠陥により、どうしても避けられない損害のこと。

例えば、卵は割れる。国家は腐敗する。

それらを原因とした事故への補償は免除される。

(パンフレットより)

 ヒー、カッコイイ~~~

70年代ポップカルチャー!ジャンキー!ヒッピー!

めちゃくちゃ空気がぬるくてサイコーですね。ぬるい炭酸。

なんていうのかなあ、ちゃんと、こういう映画がまだ撮れる2015年というのを再確認できて嬉しいですね。昔の映画ばかり見なくてもいいんだ、僕達の世代の名作が生まれ続けているんだ、というのが嬉しくて仕方ないです。僕はですね、昔の名作映画を見るのは大好きですけど、自分が歳をとった時に大切に思える、リアルタイムの映画経験をするのはとても大事なんじゃないかと思ってるんです。別にこれは映画に限らないんですけど。小説とか、音楽もね。

たまに映画の批評で「とにかく見てください」っていうなんじゃそりゃな無意味なレビューがあるけれど、そう言いたくなる気持ちもわかる。とにかくこの空気を吸って欲しい。そういう映画。

原作はトマス・ピンチョン。現代最高峰の作家と言ってもいいくらいの文学の巨人。

音楽はジョニー・グリーンウッド。Radioheadのメンバーで楽器はなんでもやる天才。映画音楽もいくつか手がけていて、トラン・アン・ユン監督の「ノルウェイの森」でも音楽を担当。

ジョニー・グリーンウッドの音楽はすごく心地が良かった。レディオヘッドの音楽が好きでよく聴いていたから、なじむっていうか。
でもネットで見かけた批評には映画に対してちょっとインテリすぎるという意見もあった。確かに内容よりはクリーンだった気もする、でもそのクリーンさが好きだし思ったよりも心地いい音楽が流れてきたことにグッと来たところがあると思う。
ギターサウンドが良いんです。

もみあげには注目せざるを得ないと思うのですが、全米を激怒させるモキュメンタリーを撮ったホアキン・フェニックス。かの映画に影響を受けたと思われる山田孝之東京都北区赤羽というモキュメンタリードラマがあります。山田孝之も髭が濃いですよね。なんというか似た雰囲気を感じないこともなかった。通じるところがあるんでしょうか。
どちらも見ていなくて、山田孝之の方は録画はしてあるので結構楽しみにしています。

 

3本、実績も実力もスゲーのを立て続けに見たなという感じです。