円城塔のトークショーにまた行ってきたよ

またトークショー行って来た。

円城塔×佐々木敦 『エピローグ』と『プロローグ』のあいだ ー世界・SF・私小説

というやつです。やっぱりこういうのは同じ人が結構参加してそうですね。

ちょこちょこメモしながら聞いていたので、気になった話などを少し紹介したいと思います。

プロローグ (文春文庫)

プロローグ (文春文庫)

 

 

エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

 

 

プロローグとエピローグを同時連載する企画のきっかけ

長編を書けといろんな人から言われていたからとのこと。芥川賞を取るまでは原稿用紙100枚くらいの短編を続ける期間があり、いざ賞を取ると今度は長編、それも連載が作家の次のステップだというような雰囲気があるらしい。

面倒なので延ばしに延ばしてたまたま連載の依頼が重なり、じゃあ一緒にやっちゃえとなったそうですが、そんなもん・・・?

 

目論見は「赤ちゃんプログラミング」?

プロローグは最終的にディープラーニングを触るところが目標で、毎月執筆自動化ツールを少しずつ習得して行く予定だったとか。したがって「日記になりますよ」と断りを入れたとか。プロローグを書いて得た技術でエピローグを書いて行く予定が、途中でSFマガジンが隔月発行になるという「外からの攻撃」によって妨害されたとか。

作中に登場する「赤ちゃんプログラミング」が理想だったのかもしれないですね。赤ん坊と一緒に育つプログラム(技術)。しかし全く辿り着かなかったそうです。実際にお子さんが生まれたこともあり完全な時間不足であったと。

 

執筆実演!

当日、会場に来るまでの間に九段下あたりから見える靖国神社の巨大な鳥居を見てSFだなと感じたという。ロボだなと。日本に無数にある鳥居が襲って来たらどうするのか。対抗できるとしたら仏像ではないか。襲いかかる鳥居に立ち向かう巨大仏像たち。しかし鳥居はそこここの小便禁止の張り紙から、伏見稲荷の千本鳥居から次々と飛び出して来る・・・

おお、円城塔の小説だ・・・!って感じですよまさに。執筆実演という感じでなかなか良い体験。

 

現実をチョンとつまめればいい

ええと、どういうくだりでこの言葉が出て来たんだっけな。おお!なるほど!と思ってメモしたんだけど・・・

確か飛浩隆の小説にあったと思うんだけど、「世界に右クリックを」って発想に近かったような。円城さんが良く言う「見たままを書いただけです」とはどういうことか?という永遠の謎を佐々木さんが追い求めたことに関連した内容だったような・・・

 

SFの単語が更新されていない

SFの課題というか、登場する技術はどんどん更新していかなくちゃSFじゃないんじゃないかという問題意識があるとのこと。実際停滞していませんかと。そういう意味でプログラミングやディープラーニングという話に繋がって来る訳ですね。なるべく実践しようと。藤井太洋さんはかなり頑張っていらっしゃりすごいとも。

 

今後どんな方向へ向かうか

今年は文字渦の単行本が出るはずということで、かなり日本語あるいは日本に接近するようです。質疑応答でも、プロローグとエピローグで記紀がモチーフになっていることについて、雨月物語をやったあたりからあれ、日本語ってなんだ?日本ってなんだ?と考えるようになったと回答。また、大阪に住むことで実感した、東日本とは異なる大和朝廷史観の存在も契機となっているとのこと。

一方で「5万部売れる小説を書く」という謎の具体的目標を掲げ始め、歴史物とかいいんじゃないか、生活があるから、とか本気なのかなんなのかわからない発言を連発。最終的に「日本列島に大陸の北から南からそれぞれ別の言語を持つ民族がやって来て出会った頃の話を書く」という完全に5万部売れないアイデアに辿り着き早くも計画が頓挫した。

実際のところはコードが書ける編集さんを探して取り組みたいアイデアが一つ、メカ藤原俊成を作って現代の和歌から勅撰集を作ったら良いのではというアイデアが一つ、そして現在進行形で何かは言えないでかい案件が一つ、という話が現実的なところなのかな・・・?

 

あとはあれですね、どこで出た話か忘れたけど、ボルヘスは結構ふざけてる人なのにみんな真面目に読みすぎという指摘が面白かった。関西弁で翻訳したらいいんじゃないかってのは笑いましたね。

 

で、トークショーに参加してその後も色々考えてみて改めてプロローグとエピローグについて思うところでも書いて締めましょう。

 

簡単にいうと、レムじゃね?という話。

プロローグとエピローグというセット自体は、レムの虚数や完全な真空みたいに架空の本の書評や序文というところからの着想だったんじゃないでしょうか。昨年末、レムの鼎談では完全な真空が一番好きだと言っていたし、未来のゲームレビューサイトという設定の赤野工作著『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』も絶賛していたので、「本体が無いがあるかのように書いた話」にかなり興味があるのではないかと。

プロローグではこれはある物語の物語である…とはじまり、エピローグでこれは物語のその後の物語…と描かれる。テーマ(かつ主人公?)が物語(ストーリー)なので、「物語の物語である・・・」とかややこしく見えるけど、こうしてレムと並べてみると、あからさますぎるほどに文字通りにも思える。

また、両作にはもったいないと思わせるほど雑多なアイデアが放り込まれていて、その点は佐々木敦さんも指摘していた(「ひとつひとつのアイデアを膨らませて別の作品書けそうなのに」)けれど、このアイデアの無駄遣いということこそ円城さんがレムを評して言っていたこととまるっきり被ってくる。アイデアは提示するからあとは考えてよ、わかるでしょ?というスタンス。

 

ということで、文庫本が出たので2回目として読み直して、本人の話を聞いて、過去を振り返ってみたらだいぶスッキリして来た気がします。いつも難解だと言われているけど、本人は「見たままを書いている」と言うだけあってコンセプト自体はかなり単純なことが多いんじゃ無いかと思い始めています。結局そこに至るプロセスが数学的だったりプログラミングだったりで僕らには難しいんですけどね。