読んだので、作中で気になったところにいちいちコメントする記事を書きました。この作品の構造を解説しようという気はさらさらなく、非常に個人的な共感や内容と無関係な連想なんかをですね、並べて行く訳です。読書日記ですね。
では、章I〜XIIまで、気になった部分をページ数をつけて引用してコメントします。
I
p9 吉祥寺のアーケードにあるエクセルシオールカフェの二階
のっけからなじみ深過ぎる場所が出て来て仰け反った。人生で2番目に多く通ったカフェでは・・・
II
p47 ともかく最初の人類はただ二人きりではなくて、ある程度の大きさの集団だったはずだろう。
そうですよね。結局は定義の問題になる。「現生人類とは」に対応する定義を決めたところで、その定義を一部満たし一部満たさない集団がいたはず。彼らの個体間にも差異があり、親と子でも定義を満たしたり満たさなかったりする時代が数万年ほど続いたのではないか。いつしか定義を全て満たす個体しかいなくなるが、それまでの間、60%や80%の個体が定義を満たしていた期間を現生人類としなくて良いのか。つまるところ、明確な切り分けはできないとなる。
p54 『すらいムしよう!』
驚くべき事にニコニコにプレイ動画がある。
p58 山幸彦と混じっているのではないか。
III
p85 蟹としての風味は弱く、南国らしい淡白さ、オリオンビールのあのすかすかとした感じと似たものがあり他の地域で食べるとあまり美味しくないのではないかと思う。湿度の高い気候に、レモンや溶かしバターがとてもよく合う。
これは常々僕も感じている南国テイストの話で、南の国は味が淡白ですよね。ソーキそばとかフォーとかカオマンガイとか。青島、シンハー、オリオン、カールスバーグ(輸入だけど香港などよく出る)等々ビールも薄い。
持論では蒸し暑いところではコクがあり過ぎると鬱陶しいのだと考えてます。個人的には結構好きです。
p92 「イエメンで鮭釣りを」みたいな響きだ。
白水社のエクス・リブリスシリーズから出ているイギリスの小説。面白くはあったがラストのオチがあまりにもイギリスらしい終わり方で(イギリスの文化に)呆れた印象が強い。
まずイギリス映画についての偏見として、イギリス人は首が飛ぶのが好きなようである。とにかくオチでいかに景気良く首を飛ばすかに賭けている節がある。ギロチンと言うとなんとなくフランスをイメージするが、イギリスも負けず劣らず処刑見物が人気の娯楽だったと聞く。ハリファックス断頭台という発明もある。考えてみると日本には切腹という独特な文化があり、イギリスでは首切りなのだということだろうか。
まあ別にこの小説では首が飛んだりはしないのだけれど、それに近いブラックユーモア(なのか?)が唐突に現れてやれやれと思わずにはいられなかったです。
ちなみにこの小説、なんと映画化までした上、日本でも公開されている。
IV
p93 昼日中でもあったから、いきなり柱を巡りはじめて出会い頭に繁殖を試みたりすることもなく、非常に事務的にことは進んだ。
これも古事記と日本書紀。前文の河南の地が生まれたことにかかっており、古事記ではイザナミとイザナギが柱を巡って出会い頭に繁殖を試みたところ日本列島が生まれている(本当に)。エピローグにおけるイザナミ・システムとイザナギ・システムに対応している。
夏目漱石の『思い出す事など』では留学での学びに関することが書かれていて、宇宙に関する話題も多い。7項などはTumblrでも流れたりしてきてなかなか面白いものです。
V
p128 羽束は路線バスというものがどうも苦手だ。前から乗るのか後ろから乗るのか、先払いか後払いか、整理券があるのかないのか、どうも変に緊張する。鉄道ならばどこも大抵乗り方が決まっているが、バスの乗り降りには意外と多くの作法があって、しかも現地の人々は他の方法がありうるとは思いつかないかのように当たり前の顔で昇降している。
禿同というやつである。いつ来るのかいつ着くのか、もう来たのかもう出たのかという点も。通勤通学でバスが必要だったことがないので馴染みがないのだ。
p130 「楽をしたいね」と言う。椋人曰く、自分は楽をするための労力は惜しまない人間である。その工夫のために執筆や話の筋が進まなかったとしてなんであろうか。
この矛盾は昔からなんとか正当化しようと思って生きてきたテーマですね。シャーマンキングの葉もそうだったけど、僕もその仲間です。今の所、楽をするための労力は楽しいと思えるものであればそれも楽のうちである。と言うのが落としどころかなと考えております。月並みですが。
p146 サイバーシン計画
書中でも説明があるが、チリで行われたテレックスによる計画経済(計画生産)システムの試みのこと。社会主義由来のサイバネティクス技術に基づく共産主義的な発想。テレックスとはなんぞやと言うと、電話回線を用いて文字情報をやりとりする機械であり、パンチカードを吐き出すタイプライターのようなものであるようだ。
VI
p157 「伏見稲荷大社は」「行きました」「上の方も」「それは勿論」
伏見稲荷に行ったという人がいたら「上の方も」と聞くのがしきたり。僕は「上の方も」行った人には出会ったことがない。自分自身も途中で降りた。
p163 鞍馬寺は魔王を祀ってるんだよ
本書プロローグの単行本が出たのが2015年11月。文學界では2014年から連載しているけど僕は単行本で初めて読んだ。なんとこの年、僕は2015年の4月に京都旅行に行き、実際に鞍馬から貴船まで徒歩で観光したのである。そして鞍馬弘教と神智学のオカルト感溢れるあれこれを調べたりしていたのだ。
もっとも、もしかして連載の情報が何処かから漏れ聞こえて来ていて頭の隅に鞍馬寺に行きたいという意識が埋め込まれていたのかもしれないけど。
ちなみにこちらの記事で旅行記を残しています。普通に観光ルートとしておすすめですよ。
p186 一日必千人死一日必千五百人生也
古事記にて、亡くなったイザナミを黄泉の国に訪ねたイザナギは妻の変わり果てた姿に慄き逃げ出してしまう。イザナミは怒りどこまでも追いかけて来るが、最後に大きな岩で道を塞ぎ現世に戻る。岩を挟んでイザナミ曰く、この恨み、日に千人の命を奪って思い知らせてやると。イザナギ曰く、君が日に千人を殺すのならば、私は日に千五百人を産もう。こうしてこの世は日々人が死に生まれる国となった。
VII
p198 これはどうやらはるばると、荻窪から移設されてきたものらしい。
こうして2年半越しに読んでみると、自分の方が荻窪へ越してきているのである。不思議なものだ。
密教とニューエイジ。デトロイトで漱石、マイアミで古今集みたいな。
p209 明治日本の進化論の受容とかも謎なんだよ。大抵、揉めるじゃない。我々は猿ではないとかいって。でもなんか日本の場合は、なるほど猿であったか、お説もっともである、そう言えばかねがね隣のあいつは猿に似ていると思っていた、っていうくらいの感じですぐに受け入れるんだよ。
またも漱石の進化論好きに接近する内容。
VIII
p225 モルグという名のオランウータン
オランウータンの名前としてこれ以上の悪ふざけはない気がする。この章に関してはほとんど自分が見知ってきたことと繋がらなかったな。
ほんの少ししか関係ないけど、ジョジョ3部のストレングス戦はポーが若干なりとも下敷きになっているのでしょうか。
IX
p255 十円安く買うために交通費を百円かけるか、その場で十円高いレタスを買うかと行った話だ。
全く本筋に関係ないですが、ここまで極端じゃない場合、どう考えて良いかって難しいよね。特に100m離れたスーパーに行くかみたいな直接金額にできない事柄とか。
例えばそれを勤め先の給料で時給換算してみたり、往復200m歩く際の消費カロリーで計算してみたりという案くらいはすぐに思い浮かぶものの、結局は変換に変換を重ねただけで適切な値付けが難しいという問題はなんら解決していないわけです。
そういうことばかり言っていると機会費用を言い訳に浪費を続けることになり、現実的に入手できる現金は限られており、機会費用などというものは著しく流動性が低い代物でしかないのだから、というあたりまで考えたところで面倒臭くなるのがいつものパターンというやつです。
p261 パッケージマネージャーは本来、そういうソフトウェア同士の競合を避けるために導入されるもののはずだが、それ自身依って立つ所もまたソフトウェアであり
エピローグのバージョン管理エージェントのバージョン管理エージェントというところに対応。やはり現実の話なんですねー。
p268 坂上田村麻呂と言われると、どちらかというと悪人だと感じる。
こういう地域的な歴史教育ってどうやって実行されてるんだろう。国レベルならまだしも、日本国内でそういうのが食い違うっていうのは。会津が長州を許さないだとか、いつ教育されるのだろう。
千葉育ちではそういう歴史イデオロギーが薄くて想像がつかない。いや、もしかすると当たり前だと考えている歴史が他県のそれと違っている可能性はあるが、少し頑張って客観性を働かせてみても千葉はほとんど無いと思う。
p269 天の岩戸は宮崎県に存在する。瓊瓊杵命の鉾は高千穂の山頂に刺さっている。そうして黄泉比良坂は島根県に実在するのだ。
これは本当に変な気持ちになることである。そんなあっけらかんと存在して良いものでは無い気がする。黄泉比良坂は島根旅行の際、迷ったが近場に何もなく実際そこにも何があるわけでも無いということでやめにした。
p273 いわゆる視肉で肉芝で太歳で
太歳というとFF11の「峠の太歳」を思い出しますね。オンラインゲームの中で生まれたフォークロアと言える。「峠のTaisaiがリフレシュを落とした」(ラングモント峠という場所でTaisaiという敵がリフレシュという魔法を覚えられるアイテムをドロップした)というデマが駆け巡り、かなりの長期間、くだんの峠にプレイヤーが集結した。
X
p298 こういうことを書いていると、それは生物学の知識として間違っている、そういうところが駄目だと小説も駄目になるんですよ、僕は昔そのあたりのことを調べたことがあるからよく知っているんですとか、したり顔で言い出す人が出てくるが
あの人だ・・・
XI
頻出です。テストに出ます。
p323 ちなみに現在の地上にはルートサーバーは十三台あり、十三台しかない。
でも分散処理をしているので物体としてはもっとあるというあまり面白くもない現実。バズりそうなネタはよくよく見ると但し書きがついているものだ。
p333 ここはあれだろ、大谷資料館。
帝国ホテルの大谷石はここの布石であった。石だけに。
もはや不気味ながらこれも単行本発売1ヶ月前に僕も訪れた場所なんですね。
まあ大谷採石場跡はなかなかの場所ですよ。関東の人は餃子でも食べつつ日帰り旅行などして見ても良いと思います。
XII
p345 そこからカリフォルニア・ゼファーに乗り込み
アメリカの荒野を駆け抜ける高速鉄道については円城塔の奥さんである田辺青蛙による夫婦エッセイ「モルテンおいしいです^q^」に詳しく書かれている。
p358 こうして地ならし作業を続けているだけにすぎない。何を迎え入れようとしているのだろうかと思う。自分たちはいつか「生きた人間」を小説に迎え入れるためにこんな作業を繰り返しているのだろうか。
ここでネタばらしというか、エピローグへ続く。という話になるのですね。
371 わたしは今この最終回を、荻窪のサンマルクカフェで、荻窪のフレッシュネスバーガーで、吉祥寺のエクセルシオールカフェで
最後の最後に来てまた怒涛のよく行くカフェ被りである。
次回はトークショーのことを書こうと思います。