どくとるマンボウ航海記より

この小説、愉快痛快非常にいいものでした。

中でも特に紹介したい部分がありまして。

死んで惜しいと思う人間はいくらもいないが、死んだら祝砲をブッ放したいと思う人間はマサゴの数ほど目にはいる。 ―80頁

言い過ぎですね(笑)

これぐらい言えたら立派だよなあ。人の発言なんて、常にその人の信条だとか倫理だとか理論みたいなものに沿っているかというとそんなことないんだよな。所詮言葉も道具であって、たまには包丁で指を切ったり自転車で転んだりするわけですよ。

それならいっそ、憤怒に燃えているときはその怒りを表現するのも誠実なんじゃないかとね。

そこにユーモアを足せたら大人だな、と思う。

もちろんこの台詞には続きがあって、

死んだ方がマシな人間がいくらいたとて、死そのものはやはり虔しい根源的なものであり、その前では恐れおののくのが本当である。 ―80頁

とあり、続く文章で死体解剖に慣れ人間を知ったと傲慢になる医者に苦言を呈しています。


そしてもうひとつ引用を。

ダーウィンなどは毫も書物を大事にしなかった。彼は重い本などは持ちやすいように半分に割ってしまい、また本を置く場所を節約するため大事なページだけをとって、あとはみんな捨て去ってしまった。 ―202頁

私は本を手に入れたときは、外箱などあれば必ず取って捨てることにしている。外箱があるとそれだけ本を開くのに時間がかかるし(中略)たとえいかに見事な外箱であっても、未練が残らぬようメチャメチャに踏み潰し、火をつけて燃してしまうべきである。拍子にセロファン紙などかぶせてあれば、これもズタズタに引裂いて紙屑籠にほうりこまねばならない。(この後も著者の写真の不快さや新しい本を汚すことについてつらつらと書かれている) ―202頁

これほどではないけど、僕もあまり物を慎重に(自分の感覚からすると“過保護に”)扱うのが苦手で、本ならば読まれ運ばれてつく傷や汚れは致し方なし、履かれて靴がすり減るのも道理、鞄は使い込めばボロボロになる、という考え方です。

小学校低学年の頃、おじさんの傘という話が国語の教科書に載っていましたが、あのおじさんのように傘が大事過ぎて雨の中傘もささずに大事な傘を庇って歩く、なんてことは、気持ちはわかるけどしたくはないのです。

もっとも私自身、本の装丁とか紙質、色、字体などデザインに関することは断然好きな人間だし、こだわります。心の中には綺麗なものを汚すことにビビッてもいる。だけどどうしてもモノは壊れるし、本来の使い道を忘れて腫れ物を触るような暮らしもしたくない。

というわけで、汚れたものも愛するって考え方も、物を大事にすることの一つの在り方として認めてもらえないかなあ、と思う次第であります。